「生徒が授業中どれだけ集中しているか」手首にリストバンドで脈拍データ化。これって本気ですか?【西岡正樹】
「いま学校で起きていること」のすべては大人社会の縮図である
◼️ 「先生、幸代ちゃんが泣いています。給食も食べていません」
いつもは活発に発言する幸代〔さちよ〕(仮名)だが、今日は朝から元気がない。集中できていないのは明らかだ。しかし、その様子を見ていると迂闊に声をかけられない雰囲気が漂っている。いつもの幸代とはあきらかに違っているのだが、どのように声をかけていいか考えがまとまらないまま、1,2時間目が静かに過ぎていった。
幸代はずっとボーっとしている訳ではない。ノートもちゃんと書いているし、発言も時折するのだ。しかし、何かの理由で授業に集中できていないのは明らかだった。4時間目のこと、時折目を机に落とす幸代の姿があまりに気になったので声をかけた。
「幸代、大丈夫か」
「はい、大丈夫です」
いつもの半分くらいの声量で言葉が返ってきた。そして、また机に目を戻した。
大きな変化が起きたのは、給食の時間だった。
「先生、幸代ちゃんが泣いています。給食も食べていません」
幸代の隣に座っている香(仮名)がやってきて教えてくれた。幸代は、と見ると両肘をつき両手で顔を覆っている。
「幸代、ちょっとおいで」
幸代はやってきたが、今は気持ちが高ぶって話ができる状態ではなかった。
「落ち着いたら話をしよう」
そう話すと幸代は床を見ながら席に戻った。
しばらくして、少し落ち着いた幸代と話をした。ここでは詳細を語ることは差し控えるが、幸代の家族に対する思い(繋がりの強さ)が彼女の心を不安定にしていたということが分かった。私が、午前中の幸代の姿をしっかり見ていなかったら、彼女の思いをより明確に理解することはできなかっただろう。今回の出来事で、子どもをしっかりと見るということの大切さを、さらに実感することにもなった。
授業は、人を通して学ぶ場である。そこに教師がいて仲間がいるから成立するものだと私は思う。お互いの思いや考えを常に交流し、お互いに影響し合うことでそれぞれの思いや考えが深まり、時には考えを変えることも余儀なくされる。そこにはお互いの存在を常に感じ、支え合っている思いがなければならないのだが、果たして、「データ」を通してそれを感じることができるのだろうか。
子どもの学んでいる姿を見ていると、子どもの集中には「自ら集中した」ものと「集中せざるを得ない状況にいるから集中した」ものとがあるということが分かる。自ら集中して得たものは「長期記憶」に繋がり、身についていくが、集中せざるを得ない状況にいて集中して得たものは「短期記憶」に繋がり、すぐに忘れてしまう傾向にある。子どもが漢字の練習している様子を見ていると良く分かる。ところが、タブレットの中で数値化された情報は、「集中している」データか、「集中していない」データしかないので、集中していればすべて「同じ集中」なのだ。でも、実際には大きな違いがあるのだ。